tsuyojijiの「ガン日和」

胃がん発見からおよそ1年になります。これまでの経過や日々の様子を書き連ねます。

オプジーボ点滴4回目。全身状況好転しています。

 今、深夜の3:00です。明確なことはわかりませんが、オプジーボの点滴を受けて来ると、体が興奮状態になってしまうのかとても眠りが浅くなってしまい、深夜に目覚めてしまうことが多いようです。

 ここ2週間、これまで何十年と続けてきた生活リズムを変えています。子供のころは覚えていませんが、少なくも大学生時代から「遅寝」の習慣が身についていて、定年後も午前0時を回らないと眠くならないような気がして、ほとんど0:30頃就寝、6:30頃起床、というスタイルが定着していました。ところが、オプジーボの点滴が始まってから、特に点滴を受けてきて数日は、何時に寝ても4:00頃には目が覚めてしまいます。その後いくら寝ようとしてもなかなか寝られません。それまでは、何時であろうと寝汗をかいて着替えをしたりトイレに起きたりしても、すぐまた眠れたのですが、眠れないままに朝を迎え、完全な「寝不足」状態になる日が多くなりました。

 そこで、前回の点滴を受けてきた日から、「早寝、早起き」に切り替えました。何があろうと22:00から22:30の間には寝ることにして、朝は4:00から5:00に目が覚めたら起床する、というスタイルです。

 起きてからは、前日の日記を書く、ウォーキングをする(その日によって30分から1時間)、本を読む、手紙を書く、ジャムづくり等をするようになりました。まあ、いわゆる老人の生活時間帯を身に着けたということなのでしょう。それにしても、昨夜はなかなか寝付けず、そして2:30頃に目が覚めてしまいました。しばらくベッドの中で目を閉じて寝ようとしたのですが、寝られそうにないので、起きだしてこのブログを書きだしました。

 さて、癌研に行くと必ず血液検査を行い、その結果をもとに主治医の問診、点滴という流れになります。その血液検査のことについて。

 群大病院に行っていたときには、「G‐CSF産生腫瘍」という白血球を作り出してしまうという私の癌の特性から、抗がん剤の効果は白血球の値で見られるでしょうということで、常にその白血球の値に注目して一喜一憂していました。その様子はこのブログにも書いてきました。しかし、癌研に行ってからは、ほとんどこの白血球の値は問題にされなくなりました。主治医の設楽先生は、もっと全身的な体調を大事にしましょう、ということで、特に私のヘモグロビンやアルブミンの極端な低さを改善することを優先しながら薬での治療を進めることを提案してくださいました。

 そのために、柏に行き始めてから、輸血とアルブミンの点滴を何度か受けました。

 一般に男性のヘモグロビンの数値は13.0~17.0が標準なのに対して、私は7.0に満たないような状態が続いていました。また、アルブミン(これは血液中のたんぱく質で、これが不足すると体のむくみが出やすいとされています)の標準値が3.8~5.2なのに対して、私は2.0に満たないことがほとんどでした。ところが、ここ3週間ほどは輸血やアルブミンの点滴なしでも、昨日の数値はヘモグロビン9.3、アルブミン2.1と上がってきています。そして、あれだけい気にしていた白血球(標準値は下限45、上限85)は、先々週が153、先週が149、そして昨日は112と徐々に下がってきていました。

 ただ、腫瘍マーカーのひとつである「CA19/9」という数値が少しずつ上がってきています。設楽先生からは、「肝機能の数値が多少影響しているのかもしれませんが、今現在の全身の体調がとても大事なので、あまり気にしなくても大丈夫です」と言われました。とはいえ、肝臓の転移も少しあることから、この数値は気にります。そこで、帰宅後、現在福島で胃腸外科のお医者さんをしている高柳君と九州大学で血液内科のお医者さんをしている宮脇君にそのあたりのことをメールしました。すると、さっそく高柳君から「その値は肝機能のちょっとした変化だけで上がったり下がったりするもので、現段階では全く気にする必要はないでしょう」という設楽先生と全く同じ内容の返信があり、ほっとしました。

 さて、現在3:40。このあとは、明るくなるまでスイカジャムのビン詰め作業しようか、何人かの人からいただいている手紙の返事を書こうか、迷っています。明るくなったらウォーキングです。

「そのうち」という逃げ道から抜け出すこと

 先日、「ワークスタジオ群馬」さんに行き、雇用契約を結んでいただきました。

 そのワークスタジオ群馬さんの壁に、あいだみつおさんの『そのうち』という詩のコピーが貼ってありました。

そのうち お金がたまったら / そのうち 家でも建てたら / そのうち 子供が手を離れたら /そのうち 仕事が落ち着いたら / そのうち 時間のゆとりができたら /そのうち・・・・・・/そのうち ・・・・・・/そのうち ・・・・・・/そのうち・・・・・・と、 /できない理由を/くりかえしているうちに/結局は何もやらなかった/空しい人生に幕がおりて/頭の上に 淋しい墓標が立つ/そのうちそのうち/日が暮れる/いまきたこの道/かえれない

 これまでの自分がまさにこれだった!と実感しました。前回のこのブログに書いたように、「そのうち このオプジーボが効いたら」と自分の中に消極的な行動目標を設定して、『自分はガンなんだから』という言い訳の部分をたくさん残して、積極的に生きること、生き抜こうとすることを忘れていた自分。そのことに、前回、柏に向かう電車の中で気づき、あのブログの記述となりました。その結果として『社会に出て仕事をしよう!!』という気持ちになり、ワークスタジオ群馬さんの門をたたいて、そこで、この詩に出会ったのです。とても、不思議な縁を感じました。

 

 さて、ワークスタジオ群馬への就職の話です。9月1日付で正式にワークスタジオ群馬さんで働き始めます。立場的には「就労支援員」として、パートタイム的な勤務となります。このワークスタジオ群馬さんについての詳細は、別の機会に詳しく紹介したいと思い、今日はちょっとだけ。

 先日、『ごんぎつね』の授業を障がい者の就労支援施設で行ったことを、このブログにも書きましたでしょうか(Facebookには書いたのですが)。その施設なのです。この運営をしている代表(所長)の笠井勇哉さんは、附属小時代の教え子の一人。彼がこの事業所を立ち上げたことは新聞で知っていました。その笠井さんから、急きょ「先生、入所者に授業を行ってください」という依頼があり、『ごんぎつね』の授業を行いました。その打ち合わせの際に、笠井さんからこのワークスタジオ群馬にかかわる、というよりも現在の障がい者の就労支援、ひいては我が国の障がい者福祉に関する厚い思いを聞かせてもらいました。その思いに打たれたこともあり、

『自分がこれまでの経験を少しでも活かしながら、これまでにない新しい分野での経験を広げていくとしたら、笠井君のところがいい!』

そんな気持ちが強くなり、先々週、笠井君に雇ってくれるようにお願いをして、雇用してもらえることになったのです。

 ワークスタジオ群馬で、どんな仕事が私にできるのか、詳しくは始まってみないとわからない面が多いのですが、それはおいおい紹介していきましょう。今日は、それよりも私なりの「ながらワーク」が始まることの意味について、書いておきたいと思いました。

 今、癌の治療(薬だけでなく様々な治療)が飛躍的に進んでいることから、全国的に「癌を抱えながら、癌の治療をしながら、働く」『ながらワーカー』がものすごく増えているのだそうです。先日、昔時々食べていた「来々軒」というラーメン屋さんに30年ぶりに家内と寄りました。すると、壁に「病気療養中のため、突然お休みすることもあります」という貼り紙がしてありました。店主は、私とほぼ同年齢。「ご病気ですか?」と聞くと、「前立腺がんをかかえて、放射線の治療中なんです」とのこと。まさに「ながらワーカー」の先輩でした。

 私の癌は、ほぼ発病から12カ月。我が国における胃がんの平均的な発病後の余命は14カ月とのこと。そして、進行が進み、ベッドについていよいよ終末期に入るとおよそ2カ月の余命となるらしいのです。しかし、まだしばらくはその気配は私にはありませんので、少なくも14カ月はクリヤーできそうです。それ以上に、オプジーボの投与が始まって以降、腸の炎症は残っていますが、比較的体調がよくて、いろいろな面で活動的になれている自分にハタと気づくことが多くなりました。これもまた別の機会に書きたいと思っていますが、とにかく音痴で有名な私が、先週から家内の所属しているコーラスグループに混ぜてもらい、歌の練習を始めました。

 いざ、薬効が落ちて、癌が進行してしまい、私にも終末期が来るのかもしれません。でも、「そのときはそのとき。少なくも頭の上に淋しい墓標だけは立てたくない!」そんな思いになっています。 

 

検査結果に頼るな!一歩前に進め!

 昨日は、オプジーボ3回目の点滴のために柏の癌研へ。

 2回目の投与を受けた日、設楽先生から「2回終わったところで、どれだけ大きな変化があるかわかりませんが、変化の様子が気になるでしょうから、3回目の8月15日にはCT撮りましょう」という提案がありました。今回の柏行きは、そのCT画像結果が大変気がかりでした。

 今回の「オプジーボ」は、胃がん抗がん剤治療としては、ほぼ最新・最終段階の薬で、最終兵器とも言うべきものです。そし、私のがんは、このオプジーボが大変よく効くタイプの「マイクロテラス不安定性」という性質をもっていることが分かっています。それだけに、昨日の段階でのCT撮影を行うことを言われた数日は、劇的にがんに変化が起こっていて、転移ガンがなくなったり、あるいは胃がんが極端に小さくなっているという結果が出るのではないか、という想像(夢想)を膨らませていました。ところが、次第に15日が近づく中で、腹部の張りや痛みがなかなか引かない状況が続き、その期待感はだんだんと薄れてきていました。昨年の暮れに始まった抗がん剤治療以降、検査をするたびに好ましい結果はほとんどなく、常に期待を裏切られてきたトラウマがあるせいかもしれません。

 そして、検査結果、「胃がんそのものは、幾分、崩れてきているように見えますね」程度のものでした。それでも癌が進むことはなく、一応のブレーキは効いているようです。まして、2回の点滴しかまだしていないわけで、「このあと期待しながら回を重ねましょう」という設楽先生のお言葉でした。

 

 実は、オプジーボの治療が始まったとき、

『おそらくお盆中に2回目の点滴になり、その際にCTの検査があるだろう。その結果で夏以降のいろいろな行動が変わるのではないか。もし、薬の効果が上がって順調に癌の回復が望めるならば、社会復帰に向けてもっと真剣に行動を起こそう。塾の建て直しもしっかり図ろう。』

と考えていました。しかし、最近その考え違いに気づきました。

オプジーボの結果がどうあれ、とりあえず、今自分は生きているわけであり、残された時間がたとえ2・3ヶ月あるいは半年とかであったしても、動ける範囲は全力で生きようとすることが大事で、薬の結果に左右されるような生き方をしていたらいけないのではないか。』

と、考えるようになりました。

 今のところ、『腸管浮腫』という腸がむくんでいる状態が強く、食後の腹部のつかえやもたれがとても強くなるので、なかなか行動がままならない状況にはあります。それでも、それを言い訳けにし、居間の座椅子に寄りかかって怠惰な時間を過ごしていることが多いのも事実です。気分を変えて、残された人生を自分で納得できるものにするためにも、一歩を踏み出したい、と考えるようになりました。

 今のところ、塾のことはもちろん考えなければなりませんが、何らかの形で仕事につきたいと思うようになりました。定年以後、ある意味気ままに過ごしてきましたが、ある程度の仕事をさせてもらい、それに対する対価をいただく、という最も基本的な社会人としての立ち位置に、自分の最期の人生を置いてみたいと思うようになりました。そうすることが、「癌に対抗しつつ、癌とともに生きる」上での大きなモチベーションとなり、エネルギー(免疫力)を自分で作り出せるような気がしています。

63歳 誕生日

 

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 本日、めでたく63歳の誕生日を迎えることができました。

 ここ数年、数十年、自分の誕生日を「めでたい」と感じたことはほとんどなかったと思います。しかし、今年の誕生日は一入感慨深い「めでたい」と素直に言える一日となりました。

 春頃、伊勢崎第一中学校3年1組のクラス会を幹事さんと相談して、昨日の8月11に設定しました。本当は、このクラス会は昨年の暮れに実施する予定で、幹事さんが9月の初めころに準備を始めてくれました。ところが10月末に私のがんが判明し、急遽その場では中止となりました。しかし、その後どうにか病状が安定している様子であったことから、幹事さんから相談があり、11日に一応設定しなおしてもらったのです。

 そのとき、ふと、自分の誕生日の前日だな、と思い、家内に「今年は無事に(元気に)誕生日を迎えられるかな?」と話して、「当たり前でしょ!」と叱られました。しかしながら、内心その思いは常にあり、特に6月の上旬に群馬大学での「パクリタキセル」と「サイラムザ」の治療が停滞気味なった頃には、その気持ちが特に強くなっていました。そして、その後国立がん研究センター東病院の設楽先生を頼って治療を柏に移し、「イリノテカン」、そして現在の「オブジーボ」の治療に推移する中で、体調がそこそこに維持されて、時に腹部の痛みに襲われはするものの、比較的元気に今日を迎えられました。ただ、昨日のクラス会は、昼に食べたパスタが胃につかえてしまい、かなりの痛みを伴ったために、生徒には申し訳ないことをしてしまいましたが、途中で帰ることになってしまいました。

 昨日、神戸の娘と孫が来てくれて、今日は孫たちに囲まれた誕生パーティーをしてもらうことができました。孫たちは、朝から、何度も「ジジ、誕生日おめでとう」を繰り返してくれて、LINEとFacebookでは数えきれないほどの友人、教え子たちからのお祝いメッセージが届きました。

 さらに、さらに人生初の「気球体験」をすることができました。一度乗ってみたかったのです。朝、次女がネットを検索して「今日、フラワーパークで気球の体験をさせてくれるイベントがあるって。ジジ、乗ってみたいんじゃない?」と一言。「行こう!」と即決。たった3分ほど、25メートルほどの上昇でしたが、なかなかの高揚感を味わうことができました。色々な意味で、うれしい誕生日でした。

 

教師としての「勲章」

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 先日、歴代の教え子たちが私を励ます会を開いてくれました。私が教員をしていたのは37年間ですが、実際に教壇に立っていたのは16年間でした。最初の8年間は前橋・伊勢崎・富士見(現前橋市) の中学校で、その後の8年間は群馬大学教育学部附属小学校に勤務していました。その後は教育行政・管理職となってしまったために、実際に担任をしたり授業を教えたりはかないませんでした。

 この16年間の教え子たち、地域も世代も全く異なる36才から53才までの130人ほどが一堂に会してくれました。

 学年ごとの同窓会、クラス会はこれまでに何度も開いてもらってきましたが、このような会は、前代未聞かと思います。最初、この話があったときには、「そんな会は恥ずかしいし、みんなとのお別れ会みたいになってしまいそうだからしなくていいよ」と言っていたのですが、5月の末、それまでの抗がん剤の効果が停滞してる状況の中で、『わがままかもしれないけど、最期にこれまでの教え子たちに会いたい』という思いが出てきて開催してもらうことにしました。当初は、4,50人集まってくればいいね、と幹事と話していたのですが、実際には全学年の人たちが駆けつけてくれました。

 これも、わたしが癌になったという緊急事態だからこそのイベントとなったわけですが、それでも、私の病気を聞きつけてこれだけの教え子たちが集まってくれたことは、本当にうれしいことでした。この際だから、正直に書いてしまいます。日本中にどれだけの先生がいるかわかりませんが、小・中学校の教員をしていて、このような会を開いてもらえる先生はそうそうはいらっしゃらないかと思います。そもそも自分がどうしていろいろな生徒がこれまでもずっとつながってくれていて、このような会を開いてもらえたのか、その理由ははっきりわかりません。それでも、担任時代、一人一人の子どもたちと真剣に向き合い、体罰もありましたが、その子とのコミュニケーションをとにかく大事にしてきた、という自負はあります。

 現在教員をしているYさん。彼女は中3で国語を教えたのですが、担任はしませんでした。しかし、彼女は私を結婚式に呼んでくれ、毎年年賀状をくれ、ここ数年FacebookやLINEでつながっています。「担任してもらった人たちが、先生とつながり続けるのもすごいけど、担任してもらっていない私が先生とつながり続けるって、もっとすごいでしょ」と、妙な自慢をしていました。

 結婚式といえば、よく中学・高校の先生は「恩師」として招待されますが(最近はほとんどなくなったようですが)、私を招待してくれた教え子の中には、小学校3年、あるいは4年生だけの担任だった人もいます。名古屋に住んでいるIさんは、4年生の1学期にアメリカへ行ったために、その3カ月だけの担任だった私を招待してくれました。

 何人もの教え子が、「小・中学校時代の先生たちの中で、とにかく印象に残って、よく覚えているのは先生に教わった一年間なんです。」と言ってくれます。前橋在住で小学校4年生の時に担任したAさん。大学受験で浪人した時、予備校の先生から「あなたはだれでもいいから、特定の人を決めて、手紙を書きなさい」と言われたのだそうです。そして、いろいろ考えた末に、手紙の相手として私を選んでくれて、その手紙のやり取りが続き、もちろん彼女の結婚式にも呼ばれることになりました。

 なんとなく、すべて自慢ぽっく書いてしまいました。しかし、これらは、教師として自慢していいことのように思うようになりました。先日、写真の記事が上毛新聞に掲載されたとき、伊勢崎在住のTさんが「この記事は、先生のお祝いの記事というだけでなくて、若い先生たちに、こんな先生もいるんだ、と思って目標にしてくれたらいいですね」という趣旨のことを言っていました。今の時代、いろいろな背景があり、学級担任が個々の子供たちと、深いつながりを作りにくくなっているのは事実かと思います。それだけに、Tさんの言葉にはうなづかざるを得ません。

 先日、近所の知り合いが「先生、新聞見たよ。あれは教師として最高の勲章だね」「勲何等とかっていう叙勲を受ける偉くなった先生たちもたくさんいるだろうけど、そんな勲章よりも、はるかに輝いているよ」と言ってくださいました。なんともうれしい言葉でした。

 なんにしても、このような会が催された一番の背景にあるのは、私が癌になったこと。そう考えると、癌になることもそれほど悪いことではないのかもしれません。

オプジーボ 2回目投与

 例年にない、高温続きの毎日。先ほど、気温が高すぎるために、日中蚊に刺されることが少ないというニュースが流れていました。少しはいいこともあるものだと、感心した次第。

 前回、急遽、「虚血性腸炎」のためにがん研究センター東病院に入院し、その途中のことまで書いたままであったことに気づいて、慌ててパソコンを開きました。

 あの後、腸炎はだいぶ落ち着いて、予定通り金曜日に退院できました。本当は、先生たちはもう少し病院に置いて、食事療法をしっかりさせたかったらしいのですが、土曜日に「かたかごの会」という教え子たちが私を囲んで励まそうと企画してくれた会が予定されていたので、何がなんでも金曜日には帰らなくてはならず、先生に無理を言って退院させてもらいました。そのために、週明けの月曜日には必ず様子を見せに来るようにと、くぎを刺されての退院となりました。

 さて、帰宅後、土・日曜日と比較的元気に過ごすことができ、その状態を維持したまま翌月曜日に病院に行きました。血液検査の結果を待って設楽先生に呼ばれ診察へ。調子を聞かれたので、「かなりいい感じです」と答えると、先生から「血液検査の結果もとてもいいですし、体調もよさそうですから、2日早いけど、明後日予定のオプジーボ2回目を、今日入れちゃいますか」というお話。そうなんです。予定では2日後の8月1日(水曜)には、再度点滴に来ることになっていました。それなので、喜んで、2回目の点滴を受けさせてもらい、帰宅しました。

 ただ一つ、大きな心配は、1回目のオプジーボ点滴後、その晩から発熱と腹痛が続き腸炎にまでなったので、今回の点滴後の反応でした。しかし、今回はそのような急激な反応は起こることなく、数日が推移しています。逆に、熱はこれまでになく安定して、朝のうち、37.2度くらいで、あとは36度台に落ち着いています。ただ、腹部の膨満感、圧迫感、食後のつかえ感はやや強くなり、特に、朝のそれらの症状は強くて、朝ご飯を食べられない日があったり、食べた後のもたれがひどく、午前中はほとんど行動できない、という日が続いています。

 このオプジーボにはとても期待しています。その理由はしばらく前に書いたように、私のがんは、この最終兵器ともいうべき「免疫チェックポイント阻害剤  オプジーボ」が飛躍的に効果を発揮する性質だからです。それなので、自分としては、この先、がんが目を見張るほどに縮小していることを、できる限りイメージするようにしています。しかし、ここ数日、食後のつかえやもたれがひどいときなどは、「あれだけ大きいがんが、そんなに簡単に小さくなるわけないよな」とつい弱気に走る自分に気づいて、「お。これはいかん!」と自分をたしなめているような状態です。

虚血性腸炎

入院3日目。

初日の夜の苦しみが嘘のように、昨日から今朝にかけて、かなり腹痛も熱も落ち着いてきました。

昨日のいくつかの検査の結果から、「虚血性腸炎」だろう、という説明が先生からありました。比較的軽度なので、ステロイドの薬を少し使って、落ち着いたら、食事のコントロールで回復するでしょう、とのことで、退院もすぐにできそうです。

 

この私の急激な「虚血性腸炎」の原因は、やはり、オプジーボによる免疫反応が大きいだろうとのこと。この後、この免疫反応がいい方向に進んでくれることを願うばかりです。