tsuyojijiの「ガン日和」

胃がん発見からおよそ1年になります。これまでの経過や日々の様子を書き連ねます。

湯根さんの記憶

   私が初めて入院、手術を経験したのは23歳、教員になったばかりの夏休みでした。学期末、少し胃が痛くて、学年主任にその事を何気なく話しました。すると、その先生が「自分の掛かり付けにこれから行くから、一緒に行こう」と言われました。それがすべての始まりで、市内の胃腸科の医院へ行ったら、だんだんと検査が進み、いつの間にか日赤病院で検査入院をすることになり、日赤病院へ行ってみると、ほぼ手術が前提で話が進んでいました。主治医の話では「がんになる可能性が五分五分です」とのこと。当時は「疑わしきは、罰する」というのが、がん治療に対する一般的な考え方であったようです。

   そして、胃を切ることになり、5分の3を切除。ところが、手術が終わってからの主治医の話。「あなたは、ガンではありませんでした。切らなくても大丈夫でしたね」ということ。「えー!」とは思ったものの、後の祭りでした。

 

    それは、さておき、私の場合、術後に肝機能障害を起こし、通常一ヶ月で退院するところを、3ヶ月も病院に留め置かれました。その時、同じ病室に湯根さんという長野原町の方が入院されていました。

     最近、その湯根さんのことをよく思います。

    湯根さんは、脳腫瘍で入院されてきました。年齢は、40代半ばではなかったかと思います。腫瘍が脳幹部にあり、手術は不可能で「もう先がないんだよ」とおっしゃっていました。私たちが入院していたのは、当時の日赤病院の6階の外科病棟でした。病室が一番東端にあり、非常階段につながるベランダが、たばこの好きな湯根さんと私の喫煙所になっていました。私は手術後1カ月ほどはたばこを控えていましたが、湯根さんが入院して来られた頃は、肝機能障害で行動制限が多く暇を持て余すようになり、たばこを再開していました。湯根さんから再開の一本目をいただいたような気もします。

 その喫煙所(ベランダ)からは赤城山がとてもよく見えて、その赤城山を見ながら、たばこをふかしつつ、湯根さんとよくおしゃべりをしました。おしゃべりをしたと言っても、ほとんどは湯根さんがいろいろなことを私に教えてくれることが多かったと思います。具体的にどんな話をしたのかは、覚えていません。しかし、もうそれほど自分の命が長くはないことを自覚しながらも、そのことをすごく自然に受け入れているように思えました。そのことがとても不思議でもあり、すごい人だという尊敬のような気持を強く抱いていた記憶があります。会話の中で、自分が死に直面しているということを、子供さんやご家族の心配をしながらも、とても自然に受け入れていらっしゃったと思います。「この先、どれだけ生きられるかはわからないけど、これも自分の人生だから」というようなことをおっしゃったことが、一番印象深く記憶に残っています。

 私は、12月の上旬に退院して、年内は自宅療養をし、3学期に学校に復帰しました。その後、5、6年過ぎた頃です。そのとき、伊勢崎第一中学校でテニス部の顧問をしていました。その年の冬、県の中体連のテニス部会が、伊勢崎の市民体育館で合同練習会を開催し、私も生徒を連れてその練習会に参会していました。その練習会の中で、各校顧問の控室にいるとき、長野原東中学校の顧問の先生のところへ、一人の女子生徒がやってきました。

 その子のネームプレートがなんと「湯根」でした。湯根さんから「湯根っていう苗字はとっても珍しい」という話を聞いていました。「えっ!」と思い、「ご両親は元気なの?」と聞いてみました。すると「父は、何年か前に病気で死にました」とのこと。顧問の先生が、「お母さんも会場に来ていますよ」とおっしゃり、お母さんをその控室に呼んでくださいました。何年振りかでお会いした湯根さんの奥様でした。その奥様から「先生が退院して、2か月ほどして亡くなったんです」というお話を聞くことができました。

 自分の病気が今後、いよいよ進んだときに、「自分は、あの湯根さんみたいに泰然自若としていられるのだろうか?」という不安があるのも事実ですが、それほど遠い将来ではないうちに自分の命が尽きるであろうことを、自然と受け入れられるような心理状態になっていることも事実です。

 こんなことを書くと、「もうあきらめるのか!」とおしかりのメールやLINEのメッセージがたくさんの教え子たちから飛び込んできそうですが、決してそんな気持ちはありません。もう少しじたばたして、往生際悪く一日でも長く生きるために、セカンドオピニオンを受けようと思っています。そのことはまた後日。