tsuyojijiの「ガン日和」

胃がん発見からおよそ1年になります。これまでの経過や日々の様子を書き連ねます。

「そのうち」という逃げ道から抜け出すこと

 先日、「ワークスタジオ群馬」さんに行き、雇用契約を結んでいただきました。

 そのワークスタジオ群馬さんの壁に、あいだみつおさんの『そのうち』という詩のコピーが貼ってありました。

そのうち お金がたまったら / そのうち 家でも建てたら / そのうち 子供が手を離れたら /そのうち 仕事が落ち着いたら / そのうち 時間のゆとりができたら /そのうち・・・・・・/そのうち ・・・・・・/そのうち ・・・・・・/そのうち・・・・・・と、 /できない理由を/くりかえしているうちに/結局は何もやらなかった/空しい人生に幕がおりて/頭の上に 淋しい墓標が立つ/そのうちそのうち/日が暮れる/いまきたこの道/かえれない

 これまでの自分がまさにこれだった!と実感しました。前回のこのブログに書いたように、「そのうち このオプジーボが効いたら」と自分の中に消極的な行動目標を設定して、『自分はガンなんだから』という言い訳の部分をたくさん残して、積極的に生きること、生き抜こうとすることを忘れていた自分。そのことに、前回、柏に向かう電車の中で気づき、あのブログの記述となりました。その結果として『社会に出て仕事をしよう!!』という気持ちになり、ワークスタジオ群馬さんの門をたたいて、そこで、この詩に出会ったのです。とても、不思議な縁を感じました。

 

 さて、ワークスタジオ群馬への就職の話です。9月1日付で正式にワークスタジオ群馬さんで働き始めます。立場的には「就労支援員」として、パートタイム的な勤務となります。このワークスタジオ群馬さんについての詳細は、別の機会に詳しく紹介したいと思い、今日はちょっとだけ。

 先日、『ごんぎつね』の授業を障がい者の就労支援施設で行ったことを、このブログにも書きましたでしょうか(Facebookには書いたのですが)。その施設なのです。この運営をしている代表(所長)の笠井勇哉さんは、附属小時代の教え子の一人。彼がこの事業所を立ち上げたことは新聞で知っていました。その笠井さんから、急きょ「先生、入所者に授業を行ってください」という依頼があり、『ごんぎつね』の授業を行いました。その打ち合わせの際に、笠井さんからこのワークスタジオ群馬にかかわる、というよりも現在の障がい者の就労支援、ひいては我が国の障がい者福祉に関する厚い思いを聞かせてもらいました。その思いに打たれたこともあり、

『自分がこれまでの経験を少しでも活かしながら、これまでにない新しい分野での経験を広げていくとしたら、笠井君のところがいい!』

そんな気持ちが強くなり、先々週、笠井君に雇ってくれるようにお願いをして、雇用してもらえることになったのです。

 ワークスタジオ群馬で、どんな仕事が私にできるのか、詳しくは始まってみないとわからない面が多いのですが、それはおいおい紹介していきましょう。今日は、それよりも私なりの「ながらワーク」が始まることの意味について、書いておきたいと思いました。

 今、癌の治療(薬だけでなく様々な治療)が飛躍的に進んでいることから、全国的に「癌を抱えながら、癌の治療をしながら、働く」『ながらワーカー』がものすごく増えているのだそうです。先日、昔時々食べていた「来々軒」というラーメン屋さんに30年ぶりに家内と寄りました。すると、壁に「病気療養中のため、突然お休みすることもあります」という貼り紙がしてありました。店主は、私とほぼ同年齢。「ご病気ですか?」と聞くと、「前立腺がんをかかえて、放射線の治療中なんです」とのこと。まさに「ながらワーカー」の先輩でした。

 私の癌は、ほぼ発病から12カ月。我が国における胃がんの平均的な発病後の余命は14カ月とのこと。そして、進行が進み、ベッドについていよいよ終末期に入るとおよそ2カ月の余命となるらしいのです。しかし、まだしばらくはその気配は私にはありませんので、少なくも14カ月はクリヤーできそうです。それ以上に、オプジーボの投与が始まって以降、腸の炎症は残っていますが、比較的体調がよくて、いろいろな面で活動的になれている自分にハタと気づくことが多くなりました。これもまた別の機会に書きたいと思っていますが、とにかく音痴で有名な私が、先週から家内の所属しているコーラスグループに混ぜてもらい、歌の練習を始めました。

 いざ、薬効が落ちて、癌が進行してしまい、私にも終末期が来るのかもしれません。でも、「そのときはそのとき。少なくも頭の上に淋しい墓標だけは立てたくない!」そんな思いになっています。