tsuyojijiの「ガン日和」

胃がん発見からおよそ1年になります。これまでの経過や日々の様子を書き連ねます。

国立がん研発表 3年後がん生存率

   今日は、国立がん研究センター東病院でオプチーボ投与5回目です。いつものように、7:22発の東武鉄道両毛号に乗るべく、家内に乗せてもらって伊勢崎駅へ。家内は、基本的にいつも車の中ではNHKラジオを聞いています。さすがに民放と異なり、NHKは小まめにニュースが入ります。今朝その中でとても気になるニュースが飛び込んできました。

   それは、国立がん研究センター中央病院が発表した、様々ながんの「3年後がん生存率」。病院についてネットを見たら、詳しく載っていましたが、その時のNHKラジオは「胃がん」について紹介していました。当然、家内も私もラジオに意識が❗

ステージⅠは96.1%      ステージⅡは74.4%   ステージⅢは53.3%

そして、ステージⅣは、なんと14.1%❗

「やっぱり、そうなんだろうなー!」「そうなだねー」

その時の会話。ステージⅢまでは、ほとんどの人が手術を受けています。しかし「Ⅳ」は転移があることもあり、手術が受けられないようです。そして、他のがんのような放射線などの化学療法が使えず、抗がん剤に頼ることになります。ですから、抗がん剤がよほどよく効かない限りはやはり生存率ががく然と下がるのは必然なのです。わかってはいても、あらためてニュースで流れると、少し重たい気分になります。

    病院についてからYahoo!のニュースを詳しく見てみました。そしたら、「2011年にガンと診断された人が対象」とのこと。そこで、ホットできる楽天さが私のいいところ!

「その後、新しいクスリが出てきているんだよな。群大で受けていたサムライザは、2年半前頃からの薬だし、現在のオプチーボはまだ1年前に使われ始めたばかり。まあ、この発表の数値はあまり気にせずにいよう」

という気持ちで、点滴を受けています。午前の診察の際に、設楽先生からは、再来週、6回目の点滴に来たとき、CTと胃カメラ両方の検査をして、評価しましょう、と言われました。さあ、その結果がどうなのか、今から楽しみではあります。

「癌患者としての自分」を忘れていられる喜び

 前線のおかげで涼しい日が続いています。この「おかげで」というのは、関東地方限定のことですね。西日本では、この前線のためにまたもや大雨の被害が出ているようです。前回のような大きな被害が出ないことを願うばかりです。

 先日の土曜日、平成3年度に小学校4年生で担任した二人の女子とコメダ珈琲でお茶をしました。二人とも7月にあった「かたかごの会」に来られなかったので、一度会いたいということで連絡をしてきてくれました。

 さて、待ち合わせの時間にコメダ珈琲に行くと、Iさんが先に来ており、東京から来るAさんは少し遅れるとのこと。Iさんとは、冬に私が群大病院に入院した時に、彼女がお見舞いに来てくれて以来なので、半年ぶり。早速「しばらくだったね。」から始まり、子供さんの近況などを聞いていました。そのうち、5分遅れくらいでAさんが到着。彼女とは3年ぶり。彼女は、今年から東京都内の小学校の教員になりましたが、それまで5年間ほど伊勢崎市内の小学校に勤務していて、私がその学校に校内研修の講師として招かれた際に会って以来でした。

 早速、3人で、あれやこれやの会話。私が新たに始めたワークスタジオ前橋での仕事の話(このワークスタジオの代表を務める笠井所長は、4年1組で二人と同級生。笠井君のWSにかける思い、障がい者福祉にかける思いについて話すと、二人とも驚いていました)、孫たちの話、ジャムの話、写真集の話、Iさんの子育ての話、Aさんの東京と群馬の学校事情の違いについての話、などなど、2時間近く話していました。

 そして、そろそろ帰らなくては、と思ったとき、「おや」と気づきました。

 なんと、私の病気のこと、全く話していなかったことに気づいたのです!いつも、だれかと会うと、必ずと言っていいように私の病状報告から話が始まりました。ところが、今回、帰り間際になって「あれ、私の病気のこと、何も話していなかったね」となりました。

 二人とも、このブログやFacebookやLINEの中で、私が元気にしている様子は読んでいたので、ある程度「元気なんだろう」という思いではいたようです。それでも、私に会うまでは、どんな様子なのか、とても気にしながらやってきたのだそうです。ところが会った瞬間、「先生の目が生き生きとしていて、その心配がどこかに行っていました」とのこと。

 そうなんです。今日は、「ガンを患う病人と心配してお見舞いに来てくれた」二人と会っていたのではなく、「ごく普通の体の、元の担任と教え子」として会っていたことになるのだと思います。この感覚がとてもうれしい一日となりました。

 今でも、胃のあたりが少し腫れぼったかったり、ちょっとうずいたりすると、微妙に不安になることはよくあります。しかし、自分が「癌を抱えている」ということを忘れられる時間がとても多いのにも改めて気づきました。それは、WSで、入所者さんたちと触れ合う時間が多くなったこともあるでしょうし、それだけ体調がよくなっているということの現れなんだと思っています。

尾瀬に向けて

 つい先日、大阪方面の台風被害のことを書いたと思ったら、今度は北海道における地震災害。北海道が大変なことになっている様子をテレビで見るにつけ、北海道の皆さんのご苦労が思いやられます。あらためてお見舞い申し上げます。

 今週は、WS前橋での仕事が始まり、少しずつ自分のやるべきこと、できそうなことが見えてきました。そして、今日はお休み。ほかのスタッフの方々は今日も仕事をされており、皆さんに比べたら、決してとても「仕事しました」と言えるほどのことはしていないのですが、それでも、今日は休みだと思うと、ちょっとほっとして、今朝は、たくさん歩いてきました。

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お米入りのリュック

 リュックの中には、5㎏のお米を入れ、腰には一眼レフカメラを専用ベルトで下げながら、およそ3キロを1時間かけて歩いてきました。これでも、尾瀬ヶ原を往復するには
まだまだトレーニング不足。まだ1カ月弱あるので焦ることはありませんが、帰り道の山ノ鼻(尾瀬ヶ原の入り口)から鳩待峠への登り坂(尾瀬ヶ原は周囲を山に囲まれているため、行きは下り、帰りが登りとなります)は、孫の空をおんぶする必要性もあるので、もっと足腰を鍛えておかないと、という気持ちがつのります。そのように考えると、「孫たちを尾瀬に連れていく」という「小さな野望」は「ちょっと大きな無謀」だったかなという後悔も多少ありますが、まあ、これからもこのスタイルでのウォーキングを継続して頑張るしかないな、と思っています。

 この半年の間、「病人のような状態」で家の中でゴロゴロ過ごしているうちに、体幹の筋肉はもちろんのこと、お尻や太ももの筋肉もげっそり落ち込んでしまっています。まずは、このあたりの筋肉を少しでも戻すには「自転車がいい」と言われました。しかし、すぐに乗れる自転車はなく、スポーツジムはもう通うこともないと思い、春頃に退会しています。再入会も考えましたが、料金的なことも考え、楽天で「エアロバイク」を購入しました。それが今日届いたので、明日以降に設置してこちらのトレーニングも始めようかと思っています。どうにかして、「小さな野望・・孫たちと尾瀬へ」を実現させたいと思っています。これができたら、「ガン、寛解」に向けた大きなエネルギーになりそうな気もしています。

 台風21号の影響、私の住む地域では大したことなく過ぎたようですが、被害の大小にかかわらず、影響のあった方々へのお見舞い申し上げます。
 さて、昨日、「ワークスタジオ前橋」への初出勤となりました。と言っても、実際に施設にいたのは2時間程度で、初めてということもあり、入所者の皆さんの活動の様子を見せてもらっただけでした。それでも、やはり結構の緊張をしていたらしく、帰宅後、どっと疲れが出ました。
 さっそく名刺をもらいました。久しぶりの名刺。気持ちが引き締まりました。
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 8月16日付のこのブログに書いたように、癌に負けない自分のための第一歩を踏み出すために社会復帰を果たそうと思った時、この「ワークスタジオ前橋」が頭に浮かびました。それは、以前に紹介しましたが、ここで一度入所者の皆さんに『ごんぎつね』の授業をさせてもらいました。そのためにこの事業所の笠井所長と会ったのですが、その折に笠井所長のこの事業所にかかわる熱く厚い思いを聞かせてもらっていました。

 従来の同様な就労者支援施設が抱えている様々な課題の中で、真に要支援者が、障がい者福祉の仕組みの中で十分な恩恵を受けられず、とりあえず簡単な作業ができるようになり、一度就労となっても、その離職率が高いのが実態。本来、障がい者であっても、その人にあった仕事に就いて、その仕事の中から働く喜びを見出し、最終的にはその人自身が幸福にならなければいけない。それを支援できるようにすることが障がい者就労支援の本質ではないか。

 このように、笠井所長は語ってくれました。そして、実際に事業所を訪ね、入所者の皆さんと1時間半にわたって『ごんぎつね』を読み合いました。この事業所に来ている皆さんは、それぞれ障がいの種類も、年齢も異なります。年齢的には20代から50代にわたるように見受けられました。その皆さんが、真剣にテキストを読み、私からの問いかけに応えてくれるのです。それこそ、目を輝かせて、お互いに意見を交換し、自分自身の考えを深めている様子が分かりました。
 そんな入所者の皆さんの様子と、笠井所長の思いとが自分の中で重なったとき、『この事業所ならば、自分に何か力になれそうなことがありそうだ。自分が癌を忘れて新しい一歩を踏み出すために、この事業所で使ってもらおう』という思いが強くなったのです。
 昨日は、午前中に15分ほど、私のミニスピーチの時間をもらうことができました。そこで、この事業所で働こうと思った経緯について、癌のことと関連付けながら話をしました。短い時間ではありましたが、皆さんがしっかり私とアイコンタクトをとってくれて、本気で聞いてくれている様子が伝わりました。これだけでも、体中の免疫力が高くなるような気がして、これからの遣り甲斐とともに、癌に対抗する大きな道筋ができたように感じた瞬間だったように思います。

小さな野望・・「孫たちとの尾瀬ハイク」

 「非常に大きい台風」21号が接近しつつあり、またもや日本のどこかを直撃する気配。今年も、西日本、北日本を中心に大きな雨の被害が出ています。この台風では、被害が出ないことを祈るばかりです。

 点滴後4日目。いくらか落ち着いたのか、10:30に寝て、4:00頃まで寝られるようになりました。今朝は3:45起床。

 3日前、点滴の影響からか深夜に目が覚めてしまい、少し写真の整理をしているとき、お盆休みに神戸から帰省して来ていた長女から、私の写真集『花・風景との出会い』の中の私と長女とが一緒に写った尾瀬が原での写真を見ながら「今度は、孫たちを連れて行ってよ」と言われたことを思い出しました。それがきっかけで、『小さな野望』が頭の中に突然浮上。これもオプジーボの興奮状態が招いたことなのかもしれません。その野望とは、10月の3連休に尾瀬ヶ原へ孫たちを連れいてくこと!

  「孫たちを連れていって」と言われたとき、「そうだねー」とだけ答えました。このとき、おそらく娘は『ほとんど不可能だと』思いつつそのように言ったのでしょうし、私は『完全に無理だよな』と思いつつそのように答えていていました。尾瀬のシーズンは10月の上旬に紅葉が終わり、その後は厳しい冬に閉じ込められます。そして、再びハイカーを受け入れてくれるのは来年のゴールデンウィーク明け。どう考えても、私が再び尾瀬に行ける可能性は見当たりません。

 しかし、ここ1週間ほど、朝のウォーキングでのスピードも上がり、歩幅も大きくなって、ずいぶんと歩けるようになってきました。まだ、膝から下にはかなりのむくみがあり、お尻や腿の筋肉などはほとんど落ちた状態で、階段を上るのはかなり厳しい状況。こんな状況で、『尾瀬に行けるのか!?』という不安はあるものの、『これからの一ヶ月、もう少ししっかりとトレーニングをしたらなんとか、行って来られるのではないか』という思いが膨らんできました。

 実際に行くとしたら10月の3連休の中日、7日(日)が唯一の候補日。今年の尾瀬の秋の深まりがどうなのかはわかりませんが、例年ならば、やや晩秋の趣になっているはず。神戸から娘親子を呼ぶには、この三連休しかありません。そもそも、「孫たちを尾瀬に連れて行く」と言っても、私が孫を背負うことはできませんし、自分の荷物を背負うのもやっとでしょう。婿さんと娘たちの力なくしては、とても尾瀬ヶ原の帰りの登り坂を帰ってくることはできません。

 そこで、その晩、神戸にFaceTimeをして尾瀬行きの話をしてみました。すると、婿さんは「お義父さん、そういう野望はとてもいいことですよ。」と言いつつ、夫婦そろって賛同してくれました。

 さて、問題は、これからの1カ月とちょっとで、私がどこまでトレーニングを重ねて階段の上り下りをできるようになるか、ということです。早速、ウォーキングの途中にある2か所の歩道橋で、一段抜かしの上り下りを繰り返すことから始めようと思い、実際に挑戦。少なくも3往復はしようと思いましたが、この3日は2往復が限界。また、孫の空(現在、体重約12キロ)をおんぶして家の階段の上り下りを始めました。これも2往復が限界。しかし、徐々にこれらを繰り返すことで、どうにか10月7日までには、尾瀬ヶ原から鳩待峠まで登りきる体力が戻るのではないか、と考え始めました。

 来年の初夏に尾瀬に行ける可能性は、どれほどあるのかわかりません。癌が完全に消えない限り、あるいは劇的に小さくなり手術で切除できない限り、癌は間違いなく進行します。したがって、現実的に考えると、来春以降に尾瀬に孫たちを連れていくことはそれこそ「大きな野望」になってしまいそうです。だからこそ、この秋が「孫たちとの尾瀬ハイク」の最後のチャンスになるかもしれません。

オプジーボ点滴4回目。全身状況好転しています。

 今、深夜の3:00です。明確なことはわかりませんが、オプジーボの点滴を受けて来ると、体が興奮状態になってしまうのかとても眠りが浅くなってしまい、深夜に目覚めてしまうことが多いようです。

 ここ2週間、これまで何十年と続けてきた生活リズムを変えています。子供のころは覚えていませんが、少なくも大学生時代から「遅寝」の習慣が身についていて、定年後も午前0時を回らないと眠くならないような気がして、ほとんど0:30頃就寝、6:30頃起床、というスタイルが定着していました。ところが、オプジーボの点滴が始まってから、特に点滴を受けてきて数日は、何時に寝ても4:00頃には目が覚めてしまいます。その後いくら寝ようとしてもなかなか寝られません。それまでは、何時であろうと寝汗をかいて着替えをしたりトイレに起きたりしても、すぐまた眠れたのですが、眠れないままに朝を迎え、完全な「寝不足」状態になる日が多くなりました。

 そこで、前回の点滴を受けてきた日から、「早寝、早起き」に切り替えました。何があろうと22:00から22:30の間には寝ることにして、朝は4:00から5:00に目が覚めたら起床する、というスタイルです。

 起きてからは、前日の日記を書く、ウォーキングをする(その日によって30分から1時間)、本を読む、手紙を書く、ジャムづくり等をするようになりました。まあ、いわゆる老人の生活時間帯を身に着けたということなのでしょう。それにしても、昨夜はなかなか寝付けず、そして2:30頃に目が覚めてしまいました。しばらくベッドの中で目を閉じて寝ようとしたのですが、寝られそうにないので、起きだしてこのブログを書きだしました。

 さて、癌研に行くと必ず血液検査を行い、その結果をもとに主治医の問診、点滴という流れになります。その血液検査のことについて。

 群大病院に行っていたときには、「G‐CSF産生腫瘍」という白血球を作り出してしまうという私の癌の特性から、抗がん剤の効果は白血球の値で見られるでしょうということで、常にその白血球の値に注目して一喜一憂していました。その様子はこのブログにも書いてきました。しかし、癌研に行ってからは、ほとんどこの白血球の値は問題にされなくなりました。主治医の設楽先生は、もっと全身的な体調を大事にしましょう、ということで、特に私のヘモグロビンやアルブミンの極端な低さを改善することを優先しながら薬での治療を進めることを提案してくださいました。

 そのために、柏に行き始めてから、輸血とアルブミンの点滴を何度か受けました。

 一般に男性のヘモグロビンの数値は13.0~17.0が標準なのに対して、私は7.0に満たないような状態が続いていました。また、アルブミン(これは血液中のたんぱく質で、これが不足すると体のむくみが出やすいとされています)の標準値が3.8~5.2なのに対して、私は2.0に満たないことがほとんどでした。ところが、ここ3週間ほどは輸血やアルブミンの点滴なしでも、昨日の数値はヘモグロビン9.3、アルブミン2.1と上がってきています。そして、あれだけい気にしていた白血球(標準値は下限45、上限85)は、先々週が153、先週が149、そして昨日は112と徐々に下がってきていました。

 ただ、腫瘍マーカーのひとつである「CA19/9」という数値が少しずつ上がってきています。設楽先生からは、「肝機能の数値が多少影響しているのかもしれませんが、今現在の全身の体調がとても大事なので、あまり気にしなくても大丈夫です」と言われました。とはいえ、肝臓の転移も少しあることから、この数値は気にります。そこで、帰宅後、現在福島で胃腸外科のお医者さんをしている高柳君と九州大学で血液内科のお医者さんをしている宮脇君にそのあたりのことをメールしました。すると、さっそく高柳君から「その値は肝機能のちょっとした変化だけで上がったり下がったりするもので、現段階では全く気にする必要はないでしょう」という設楽先生と全く同じ内容の返信があり、ほっとしました。

 さて、現在3:40。このあとは、明るくなるまでスイカジャムのビン詰め作業しようか、何人かの人からいただいている手紙の返事を書こうか、迷っています。明るくなったらウォーキングです。

「そのうち」という逃げ道から抜け出すこと

 先日、「ワークスタジオ群馬」さんに行き、雇用契約を結んでいただきました。

 そのワークスタジオ群馬さんの壁に、あいだみつおさんの『そのうち』という詩のコピーが貼ってありました。

そのうち お金がたまったら / そのうち 家でも建てたら / そのうち 子供が手を離れたら /そのうち 仕事が落ち着いたら / そのうち 時間のゆとりができたら /そのうち・・・・・・/そのうち ・・・・・・/そのうち ・・・・・・/そのうち・・・・・・と、 /できない理由を/くりかえしているうちに/結局は何もやらなかった/空しい人生に幕がおりて/頭の上に 淋しい墓標が立つ/そのうちそのうち/日が暮れる/いまきたこの道/かえれない

 これまでの自分がまさにこれだった!と実感しました。前回のこのブログに書いたように、「そのうち このオプジーボが効いたら」と自分の中に消極的な行動目標を設定して、『自分はガンなんだから』という言い訳の部分をたくさん残して、積極的に生きること、生き抜こうとすることを忘れていた自分。そのことに、前回、柏に向かう電車の中で気づき、あのブログの記述となりました。その結果として『社会に出て仕事をしよう!!』という気持ちになり、ワークスタジオ群馬さんの門をたたいて、そこで、この詩に出会ったのです。とても、不思議な縁を感じました。

 

 さて、ワークスタジオ群馬への就職の話です。9月1日付で正式にワークスタジオ群馬さんで働き始めます。立場的には「就労支援員」として、パートタイム的な勤務となります。このワークスタジオ群馬さんについての詳細は、別の機会に詳しく紹介したいと思い、今日はちょっとだけ。

 先日、『ごんぎつね』の授業を障がい者の就労支援施設で行ったことを、このブログにも書きましたでしょうか(Facebookには書いたのですが)。その施設なのです。この運営をしている代表(所長)の笠井勇哉さんは、附属小時代の教え子の一人。彼がこの事業所を立ち上げたことは新聞で知っていました。その笠井さんから、急きょ「先生、入所者に授業を行ってください」という依頼があり、『ごんぎつね』の授業を行いました。その打ち合わせの際に、笠井さんからこのワークスタジオ群馬にかかわる、というよりも現在の障がい者の就労支援、ひいては我が国の障がい者福祉に関する厚い思いを聞かせてもらいました。その思いに打たれたこともあり、

『自分がこれまでの経験を少しでも活かしながら、これまでにない新しい分野での経験を広げていくとしたら、笠井君のところがいい!』

そんな気持ちが強くなり、先々週、笠井君に雇ってくれるようにお願いをして、雇用してもらえることになったのです。

 ワークスタジオ群馬で、どんな仕事が私にできるのか、詳しくは始まってみないとわからない面が多いのですが、それはおいおい紹介していきましょう。今日は、それよりも私なりの「ながらワーク」が始まることの意味について、書いておきたいと思いました。

 今、癌の治療(薬だけでなく様々な治療)が飛躍的に進んでいることから、全国的に「癌を抱えながら、癌の治療をしながら、働く」『ながらワーカー』がものすごく増えているのだそうです。先日、昔時々食べていた「来々軒」というラーメン屋さんに30年ぶりに家内と寄りました。すると、壁に「病気療養中のため、突然お休みすることもあります」という貼り紙がしてありました。店主は、私とほぼ同年齢。「ご病気ですか?」と聞くと、「前立腺がんをかかえて、放射線の治療中なんです」とのこと。まさに「ながらワーカー」の先輩でした。

 私の癌は、ほぼ発病から12カ月。我が国における胃がんの平均的な発病後の余命は14カ月とのこと。そして、進行が進み、ベッドについていよいよ終末期に入るとおよそ2カ月の余命となるらしいのです。しかし、まだしばらくはその気配は私にはありませんので、少なくも14カ月はクリヤーできそうです。それ以上に、オプジーボの投与が始まって以降、腸の炎症は残っていますが、比較的体調がよくて、いろいろな面で活動的になれている自分にハタと気づくことが多くなりました。これもまた別の機会に書きたいと思っていますが、とにかく音痴で有名な私が、先週から家内の所属しているコーラスグループに混ぜてもらい、歌の練習を始めました。

 いざ、薬効が落ちて、癌が進行してしまい、私にも終末期が来るのかもしれません。でも、「そのときはそのとき。少なくも頭の上に淋しい墓標だけは立てたくない!」そんな思いになっています。